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彼女はバスに乗って家に帰る途中だった。
彼女の外見は中国人か日本人。韓国人かもしれないし、フィリピン人である可能性もある。

何にせよ、一見して極東、またはもっと広い意味でのアジア出身であろうことがはっきり見て取れる外見。その中年女性は、よほど急いでいたらしく、チャーチル・スクウェアのバス停に止まっていたバスに飛び乗り、後部座席へと歩いて移動した。

彼女が着用している赤いポロシャツの胸元には、TEDDY BEAR NURSERYという刺繍が見える。保育施設に勤める移民なのだろう。両手いっぱいにスーパーマーケットや1ポンド・ショップの袋を下げ、よちよちと頼り ない足元で後部座席へと進む彼女の足が、つ。と何物かに触れ、転びそうになった。
足を通路まで投げだしてだらしなく腰かけていたスキンヘッド&タトゥーだらけのおっさん2人組の、どちらかの足に蹴躓いてしまったのである。

「ソ、ソーリー」
と彼女はR音とL音が混じり合ったような、英国人にとっては聞き取りづらい不思議な発音でSorryのR音を発音しながら謝った。
スキンヘッド&タトゥー2人組のおっさんの1人が、低い声で呟く。
「ファッキン・チンク」

彼女はまた「ソーリー」と条件反射のように謝ってからバスの後部に移動した。
チンク。
それは彼女が日常的に耳にする言葉であった。
その言葉は中国人に対する蔑称だと、ある日本人は言った。
そうではなく、極東人全体を指す蔑称なんだよと爆笑した中国人もいた。

しかし、彼女にとってそういう詳細はどうでも良かった。
中国人でも、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、そんなことはどうでも良いのである。先様の目から見れば、チンクはチンクなのだから。

「ファッキン・チンク」
彼女は特によくこの言葉を浴びせられることがあった。
自転車で道を走っている時に、ぼんやりしていて信号を確認せずに渡ってしまうと、脇から出て来た車の運転手から「ファッキン・チンク」とどやされた。
ぼさっと考え事をしながら商店街を歩いていて、反対側から歩いて来た人の肩に頭がぶつかると「ファッキン・チンク」となじられた。

どちらの場合も、悪いのは自分である。と彼女は理解していた。
自分がしょっちゅうぼんやりしたり、ぼさっとして街中を移動しているから、他人に迷惑をかけてしまい、そのために相手を激昂させて「ファッキン・チンク」と言われるのだ。
そう考えていた彼女にとり、「ファッキン・チンク」はもはや人種差別的表現ではなく、自分がどんくさいために見知らぬ人から叱られている時に言われる言葉に過ぎなかった。
だからその時も、彼女はそそくさとスキンヘッドとタトゥーの2人組のそばから歩き去り、バスの一番後ろのシートに腰かけたのである。

が、その時、唐突にバスの前方からだみたおっさんの声が聞こえて来た。
「誰かが今、俺のバスの中で不快な言葉を吐いただろう。しかも卑語つきで」

彼女が顔を上げると、バスの運転手がおもむろに振り向いてこちら側を見ている。
運転手はガラの悪そうなスキンヘッドの白人の大男であった。
半そでのシャツから覗くモリモリした腕には、色とりどりのタトゥーが施されている。
年齢はおそらく三十代後半から四十代前半。はっきり言ってその運転手の年恰好は、彼女に罵声を浴びせた2人組に良く似ていて、同じ系統の人々であるようにも見える。彼ら3人は仲の良いお友達同士なのですよ、と誰かがもし言ったとしても、彼女は別に驚かなかっただろう。

「誰かがそこの真ん中あたりで、不愉快な雑音を発しただろう」
運転手はそう言いながら、その目は明らかにスキンヘッド二人組のほうを見ていた。
運転手から誰が見てもそれとわかるような明瞭な視線を向けられ、二人組は激昂した。
「なに格好つけてんだよ」
と、背の高い方のスキンヘッドが言う。
「ファッキン・チンクはファッキン・チンクだろうが。ちょっとファッキン金の貰えるファッキン仕事をしてるからと言って、人を見下ろすな」
背の低い小太りのスキンヘッドも、ファッキン、ファッキンとリズミカルに怒鳴っている。

「降りろ」
と運転手は言った。
「卑語や他人を蔑む言葉を使う人間は、俺のバスには乗れない。降りろ」
2人組のスキンヘッドは、いったい自分たちに何が起きているのかわからない、というような表情で当惑していたが、すぐに勢いを盛り返し、運転手に向かって叫び返した。
「格好つけやがって、安月給の運転手のくせに。バス会社のオフィスにクレームつけてやるからな」
「俺らはちゃんとバス代払ってるだろうが。貴様が払い戻ししてくれんのかよ」

しかし、そうしている間にも、二人組の立場が苦しくなっていることは彼女にも見てとれた。
「あんたたちがいつまでもそこでうじゃうじゃやってると、アタシ、バイトに遅れるんだけど」みたいな目線で二人組を睨んでいる赤毛の学生風の女性。
「なんでもいいからとっとと降りてくれ。こちとら早朝から働いて疲れてるんだよ」みたいなディープなため息をつく、暗い目をした郵便配達の制服の男性。など、じっとりと二人組を凝視している乗客がけっこういる。
運転手はきっぱりとした声で言った。
「彼らが降車するまで、当バスは発車しません」
(と書くと、まるで脚本のようにストレートな進行だが、これはリアリティーなので、当然、乗客の中には「あんたさえバスに乗って来なければこんなことにはならなかった」的な目つきで彼女のほうを睨み、大袈裟にため息をついて頭を振ってみせる人などもいたが)

「一介のファッキン運転手に、運賃払って乗車している客に『降りろ』なんて言うファッキン資格があると思ってるのか?」
と二人組の背の高い方が言った。
「ファッキン運転手はファッキン運転手らしく、黙ってファッキン・バスを運転しろ。それがお前の仕事だろうが」
二人組は執拗に駄々をこね続けるが、運転手は彼らの挑発には乗らず、冷静に言った。
「速やかに降車しろ」
乗客らは一斉に二人組のほうを見ている。
二人組は肩を怒らせてポーズをつけながら斜めの角度で立ち上がり、
「最低保証賃金で働く哀れなルーザー」
「ファッキン・カント」
と悪態をつきながら運転手の脇を通り抜け、バスから降りて行った。

真っ昼間からゆったりとバスに乗って、気ままに卑語を連発しているということは、無職の人たちなのかもしれない。
彼らから低賃金で働く哀れなルーザーと呼ばれた運転手は、何事もなかったかのように前方を向き、バスのドアを閉じながら言った。
「発車します」

いったい何だったのだろう。
彼女はひどく動揺していた。
この国に住んで15年になるが、こんなことがあったのは初めてなのだ。
だから、運転手の行動は、彼女にとり、一種の清涼剤とか、わたしのヒーロー。とかいう爽やかなものではなく、ある意味、ひどくショッキングなものですらあった。

多くの人々がバスを乗り降りし、窓の外の風景がゆるやかに街中から郊外へ、裕福な地区から貧しい地区へと移り変わり、二人組のスキンヘッドのことなど誰もが忘れてしまった頃、いつものようにブザーを鳴らし、いつものバス停で彼女は降車した。
降り際に、「Thank you」と彼女は言ったが、それは特にバスの中で起きたことに言及しているのではなく、この街では多くの人々がバスを降りる時に運転手に言う言葉だったので、なんとなく習慣でそう言っただけだった。
運転手も慣れた口調で
「Thanks. Bye」と挨拶文句を言う。

が、唐突に、しかしさり気なく、
「Never mind the idiots」
というだみ声が降車する彼女の背後から聞こえてきた。

そういえばむかし、「Never Mind The Bollocks」というタイトルの、この国のパンクバンドのアルバムがあったよなあ。
と彼女は思った。
あのアルバム、邦題は「勝手にしやがれ」だったと思うが、本当は違うよな。

 

「アホは気にすんな」


よろよろと貧民街の坂を登る彼女の脇を、バスがぶるんぶるんと走り過ぎて行く。
彼女の胸の中に、久しぶりに、本当に久しぶりに、金銀の花火が打ちあがった。

Source: takaakik
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